昨日はお彼岸ということで、おじいちゃんの家にいってきた。
私の家から約1時間、和歌山県海南市の南東、紀伊山地からまっすぐ海に向かって流れ、そして海を目前にしていきなり方向を変えて紀ノ川に注いでいる貴志川という川がある。おじいちゃんの家はその方向が変わるあたりにある。

家に車を止め、早速お線香をもって墓地に向かった。川沿いの家から高台にあるお墓までは約15分、田んぼの中をひたすら進む。

川から山に向かってゆるやかな段を描きながら田んぼが連なり、稲はこうべを垂れ、あぜみちには彼岸花が乱れ咲き、その合間に転々と家々が並んでいるこの光景は、私にとってあまりにも素直な風景であり、音楽好きなら誰でもやりたがるその風景にあった音楽選びをしようにも、妥当な曲が浮かばない。そう、どんな楽器の音ですらこの風景の中では不自然になってしまう。手つかずの熱帯雨林や南極大陸、さしては宇宙をも超えた究極の自然がこの風景には存在するのではないか・・・

そんなわけもわからないことを考えていると、お寺に到着した。お寺からは先ほどきた道を見降ろすことができる。ここからの風景は、おそらくとなりのトトロでのあの大きな木の上から見た景色に似ていると思う。

私がかかわっているお墓はこの墓地に2つあり、どちらも敷地の中に多くの墓石が立ち並んでいる。それぞれに水をかけ、線香をたいて墓前で静かに手をあわせた。

山をおり、また祖父母宅に戻ってきた。家に着くと、とたんに眠くなり、2時間ぐらい眠ってしまった。起きると、祖母が「ご飯できてるで」と言ってくれた。

祖父母はこの場所で食堂を営んでいる。昼食はそのパートのおばちゃんたちと一緒にした。とりとめもない話をしながら焼きそばを食べた。祖父が作る焼きそばは野菜が細かく、そして絶妙な酸味がきいている。

しばらくして僕は家に帰った。実は眠りから目覚めた時にあることを思っていた。車の中で僕はそれを思い返していた。

それはただただ「幸せ」ということであった。僕は今日一日通して何をもらったわけでもない。強いて言うなら夕飯用のおでんと、柿を1箱もらったが、そんな物質的なものをはるかに超えた幸せと安らぎを感じていたのである。

そう思って今までの人生を振り返ってみた。はっとした。僕の人生は、あまりにも物質的な幸せに固執しすぎていたのではないか、そのように感じられたのである。

僕にとって、祖父母の家で、そして自分の家で感じている「やすらぎ」こそが本来の幸せであって、車とかそいういった物質的な幸せはそれらの上にのっけることができてしまうぐらい小さなものであったのだ。

そして僕のこれからのあるべき幸せはきっと、そういう「やすらぎ」を誰かに与えることができるような人間になっていくことなのだと思った。そのために誰かを愛し、一生懸命働き、生きていくことが、僕にとっての幸せであるべきなのだと。

実はこれは結構当たり前のことなのかもしれない。でも、それに気付かなかった自分がいたわけで。

まあそんないろんなことを感じたお彼岸でした。

あぁ、結構重い話なんかな、でも僕は晴れやかな気持ちになったというか一種の感動を覚えたのでここに書いときます。

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